阿南平和委員会

阿南平和委員会の活動を発信しています。

   9月15日に行われた阿南平和委員会でのОさんの戦争体験の書き起こしです

軍事教練に明け暮れた青春時代

生まれた翌年に満州事変が始まって、1945年の終戦の年まで、後に15年戦争と言われた時代が私の青春時代でした。真珠湾攻撃のあった年に富岡中学校(現在の富岡西高校)に入学しました。戦争体験という話ですが戦争による苦しさとか食糧不足を耐え忍んだ話とかは、親は心配や苦労はあったのでしょうけど、私本人はそう言う経験はないんです。

富岡中学校には、在郷軍人(退職軍人)が配属されて、軍隊教育、軍人教育を学校でやっていたんですけども、富岡中学校の場合にはある重大な事件がおきまして、県からの要請で在郷軍人1人だけでなくて配属将校(現役将校)が1人配属されてきて、校長よりも権限を持つという状況でした。

朝、学校に登校したら、まず《君が代》を歌って、《教育勅語》を斉唱しました。そのあと授業が始まるんですけど、6時限のうち普通の教科は2時限だけでした。あとは全部、体育(軍事教練)に費やされました。その中で特に特徴的なのは【軍人精神注入棒】これ海軍の真似したんですけどね。六角棒でお尻を叩くんです。

 さらに何の訓練やるにしても、10人で班を組むんです。その10人の行動が一糸乱れぬ行動でなかったら罰則がつくんです。その罰則について特に印象に残っているのは、富岡中学校から現在ゴルフ場になっているあたりまで往復(およそ4㎞)する訳ですが、成績の悪い2班を校庭に並ばして、10人ずつが対向ビンタ【向かい合わせで殴る】を強要されました。初めは友達同士だから、なかなかできないのですけども、だんだんやられたら、その気になって、殴り返す。公認の殴り合いやからね。それでもなおかつ手加減しとる生徒なんかがいたら、教官がすぐやってきて、軟弱者だということで、六角棒でお尻を叩くんですね。なので皆、泣きながら必死になってやらないと自分だけがボロボロにされるということで、それをやったんです。

大人も逆らえなかった非人道的な教育

それを見かねて、担任の太田先生(あだ名は背広を着ているがボロボロだったので高等ルンペン更に略して高ルン)は英語の教師だったんですけども、罰則の現場に寄ってきて「ちょっと、いくら何でも非人道的ではないか」と将校に抗議したんですよ。そしたらとたんに、その先生が標的になって、生徒の見ている前でめったやたらに殴る蹴るをやられて失神したんです。その後、10日ほど、太田先生は休みました。そして、再び出てきたときには国民服(カーキ色の詰襟服)を着て、見かけだけは軍国教師に変わりましたという風貌でした。

そして、いつも朝から《君が代》《教育勅語》さらに《軍人勅諭》までも斉唱、これがだいたい20分かかるんですけども、毎日斉唱、普通教科2時限の後は軍事教練の日々が続くわけです。

米軍機による那賀川鉄橋襲撃事件

これは、なかなか人には言えなかった話なんですけども、当時、夏休みでした。あと少しで終戦というときなのですが、1945年(昭和20年)7月30日の那賀川鉄橋列車襲撃事件の話です。当時、何人か指名されて立江の山の中に駐留日本軍専用防空壕を作る作業をしていました。「今も掘りかけの壕が残っている」それに動員されて、交代で1日に何人かが、その穴掘りに行くわけですが、あの、実はさぼって、小松島まで行って映画を見たり友達と遊んだりしていました。その帰りに乗った列車が米軍機による空襲に遭います。当時、終戦間際で勝ち誇っていて遊び半分の艦載機2機が起こした事件なんですけども、意味のない殺戮です。まず機関銃で列車のボイラーに穴をあけ、減速するわけです、次に2両目と3両目の間に小型爆弾を落とします。それで停止させて、それで旋回してきて機銃掃射を2回やったと思うんですけども、誰かが伏せろと言ったので窓際で伏せていました。窓は初めから終わりまで全部撃ち抜かれました。自分は伏せていたので頭の上を弾丸が通過したのですが、反対側の窓際にいた人たちは足首が飛ばされたりしていたのを見ました。私たちは子供だったので、怖いという思いが強く米軍機が去ったあと、線路づたいに逃げました。まもなく消防団が到着して、近くにあった製材所の敷地に死傷者が運ばれました。むしろの上に80体程の死傷者が横たわっていました。その後、いっしょの列車にたまたま乗り合わせた1つ上の先輩と共に富岡駅(現在の阿南駅)までトボトボと歩いて帰るわけですが、この話は口に出すわけにいかんな、2人だけの秘密にしようということにしました。おそらく動員をさぼっていたのがばれたら体罰があるというのがあったのでしょうけども。

今でも脳裏に焼き付く悲惨な光景

一番印象に残っているのは恐怖に耐えかねてあの高い鉄橋から飛び降りたものの水位が低いので頭を打ちつけて、そのまま亡くなったりだとか、製材所に集められた80体の人はほとんど死者だったんですけども、一番心に残っているのは、おそらく死んだ母親の横に今生まれたばかりの赤ん坊がギャーギャー言って泣いていたんです。もし生きていたら75歳になっているんかな、生きているなら会ってみたいという気持ちがあります。‥まあそういうことです。私自身はあんまり褒められた話ではないので恥ずかしい話なのでこのくらいにしますけどそういう状況だったわけです。

感想

戦争の狂った集団心理ということ。どんなに大義名分があろうとも、無意味な殺戮であることが感じ取れるお話でした。Оさんは今もバリバリで活動を続ける元気なおじいさんです。淡々と戦争体験を話してくれましたが赤ん坊の話の時は、涙ぐみ言葉が詰まりました。

 戦争とは最大の人権侵害で外交の失敗です。日本はまだギリギリ戦争をしない方法が残されています。不戦の誓い9条が生かされるときではないでしょうか。

   9月15日に行われた阿南平和委員会でのОさんの戦争体験の書き起こしです

軍事教練に明け暮れた青春時代

生まれた翌年に満州事変が始まって、1945年の終戦の年まで、後に15年戦争と言われた時代が私の青春時代でした。真珠湾攻撃のあった年に富岡中学校(現在の富岡西高校)に入学しました。戦争体験という話ですが戦争による苦しさとか食糧不足を耐え忍んだ話とかは、親は心配や苦労はあったのでしょうけど、私本人はそう言う経験はないんです。

富岡中学校には、在郷軍人(退職軍人)が配属されて、軍隊教育、軍人教育を学校でやっていたんですけども、富岡中学校の場合にはある重大な事件がおきまして、県からの要請で在郷軍人1人だけでなくて配属将校(現役将校)が1人配属されてきて、校長よりも権限を持つという状況でした。

朝、学校に登校したら、まず《君が代》を歌って、《教育勅語》を斉唱しました。そのあと授業が始まるんですけど、6時限のうち普通の教科は2時限だけでした。あとは全部、体育(軍事教練)に費やされました。その中で特に特徴的なのは【軍人精神注入棒】これ海軍の真似したんですけどね。六角棒でお尻を叩くんです。

 さらに何の訓練やるにしても、10人で班を組むんです。その10人の行動が一糸乱れぬ行動でなかったら罰則がつくんです。その罰則について特に印象に残っているのは、富岡中学校から現在ゴルフ場になっているあたりまで往復(およそ4㎞)する訳ですが、成績の悪い2班を校庭に並ばして、10人ずつが対向ビンタ【向かい合わせで殴る】を強要されました。初めは友達同士だから、なかなかできないのですけども、だんだんやられたら、その気になって、殴り返す。公認の殴り合いやからね。それでもなおかつ手加減しとる生徒なんかがいたら、教官がすぐやってきて、軟弱者だということで、六角棒でお尻を叩くんですね。なので皆、泣きながら必死になってやらないと自分だけがボロボロにされるということで、それをやったんです。

大人も逆らえなかった非人道的な教育

それを見かねて、担任の太田先生(あだ名は背広を着ているがボロボロだったので高等ルンペン更に略して高ルン)は英語の教師だったんですけども、罰則の現場に寄ってきて「ちょっと、いくら何でも非人道的ではないか」と将校に抗議したんですよ。そしたらとたんに、その先生が標的になって、生徒の見ている前でめったやたらに殴る蹴るをやられて失神したんです。その後、10日ほど、太田先生は休みました。そして、再び出てきたときには国民服(カーキ色の詰襟服)を着て、見かけだけは軍国教師に変わりましたという風貌でした。

そして、いつも朝から《君が代》《教育勅語》さらに《軍人勅諭》までも斉唱、これがだいたい20分かかるんですけども、毎日斉唱、普通教科2時限の後は軍事教練の日々が続くわけです。

米軍機による那賀川鉄橋襲撃事件

これは、なかなか人には言えなかった話なんですけども、当時、夏休みでした。あと少しで終戦というときなのですが、1945年(昭和20年)7月30日の那賀川鉄橋列車襲撃事件の話です。当時、何人か指名されて立江の山の中に駐留日本軍専用防空壕を作る作業をしていました。「今も掘りかけの壕が残っている」それに動員されて、交代で1日に何人かが、その穴掘りに行くわけですが、あの、実はさぼって、小松島まで行って映画を見たり友達と遊んだりしていました。その帰りに乗った列車が米軍機による空襲に遭います。当時、終戦間際で勝ち誇っていて遊び半分の艦載機2機が起こした事件なんですけども、意味のない殺戮です。まず機関銃で列車のボイラーに穴をあけ、減速するわけです、次に2両目と3両目の間に小型爆弾を落とします。それで停止させて、それで旋回してきて機銃掃射を2回やったと思うんですけども、誰かが伏せろと言ったので窓際で伏せていました。窓は初めから終わりまで全部撃ち抜かれました。自分は伏せていたので頭の上を弾丸が通過したのですが、反対側の窓際にいた人たちは足首が飛ばされたりしていたのを見ました。私たちは子供だったので、怖いという思いが強く米軍機が去ったあと、線路づたいに逃げました。まもなく消防団が到着して、近くにあった製材所の敷地に死傷者が運ばれました。むしろの上に80体程の死傷者が横たわっていました。その後、いっしょの列車にたまたま乗り合わせた1つ上の先輩と共に富岡駅(現在の阿南駅)までトボトボと歩いて帰るわけですが、この話は口に出すわけにいかんな、2人だけの秘密にしようということにしました。おそらく動員をさぼっていたのがばれたら体罰があるというのがあったのでしょうけども。

今でも脳裏に焼き付く悲惨な光景

一番印象に残っているのは恐怖に耐えかねてあの高い鉄橋から飛び降りたものの水位が低いので頭を打ちつけて、そのまま亡くなったりだとか、製材所に集められた80体の人はほとんど死者だったんですけども、一番心に残っているのは、おそらく死んだ母親の横に今生まれたばかりの赤ん坊がギャーギャー言って泣いていたんです。もし生きていたら75歳になっているんかな、生きているなら会ってみたいという気持ちがあります。‥まあそういうことです。私自身はあんまり褒められた話ではないので恥ずかしい話なのでこのくらいにしますけどそういう状況だったわけです。

感想

戦争の狂った集団心理ということ。どんなに大義名分があろうとも、無意味な殺戮であることが感じ取れるお話でした。Оさんは今もバリバリで活動を続ける元気なおじいさんです。淡々と戦争体験を話してくれましたが赤ん坊の話の時は、涙ぐみ言葉が詰まりました。

 戦争とは最大の人権侵害で外交の失敗です。日本はまだギリギリ戦争をしない方法が残されています。不戦の誓い9条が生かされるときではないでしょうか。

1本の電話

電話の相手が語ったこととは?

 参議院選挙の始まる少し前のある日、電話が鳴った。電話の主は「今の日本の,政治、どうなってしまっているんや、生活が厳しい、凄く生きにくい、閉塞感を感じる」と切実な思いと今の日本が戦争に向かっていることのやるせなさや憂いの思いを色々Nさんは語り始めた。

少年時代

 牟岐町の沖に浮かぶ小さな島で生まれ育った。島の家には必ずと言っていいほど縁側があった。漁師町なので道は狭く縁側は蝶番で留められた可動式のものがほとんどです。近所のおじいさんは寝るとき、食事の時以外縁側で座り微動だにしません。

学校に行く時も、放課後遊びに出かけるときもおじいさんを見ると同じ位置で座ったままです。少年心に興味本位で親父に理由を尋ねました。おじいさんには5人の息子がいました。しかし5人すべて太平洋戦争で戦死したのです。それ以来、おじいさんは抜け殻の様になってしまいました。当時、生活の中に戦争の傷跡があった。戦争のむなしさをどうすれば若い世代に伝えられるのかそう語り次の話に進むのです。

 

日本の空は日本の空ではない

5月12日の阿南平和委員会の企画で米軍機低空飛行問題を牟岐町議(日本共産党)の藤元雅文さんがお話ししてくれました。

米軍機の低空飛行を監視して、皆に、実態を知ってほしい、繰り返してはいけないと思ったきっかけは40年前、横浜の住宅街で起きた米軍戦闘機の墜落事故でした。

 

パパママ・バイバイ 横浜米軍機墜落事故 なくなれ!厚木基地のページより転載👇

www.cityfujisawa.ne.jp

 

 

 

 とにかくいろんな人に知ってもらわなくては、いけないと思い。最初は、コンパクトカメラで撮影を始めました。しかし戦闘機はスピードが速いので、うまく撮れない日が続きました。そこで、同じオレンジルートのルートの人と連携して、連絡を取り合い写真を撮り始めた。地元紙も取り上げてくれるようになり、米軍機が飛ぶと地元新聞記者から電話がかかってきて、取材に来るようになりました。

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藤元雅文さん撮影、自宅の真上を低空飛行する米軍機

監視活動が県を動かした

 高知の県議会では、今まで、低空飛行やめてくださいという決議を出していましたが、いつも否決されていました。しかし、監視活動の繋がりでで2日前連絡を取り始めた高知県の人が撮った。ある動画がネット拡散され状況は変わりました。

*1

https://www.youtube.com/watch?v=4-HVIF-UQzs&authuser=0

これをきっかけに、保守系の議員も渋々ですが、低空飛行中止を求める決議を同意せざるおえなくなり、県議会を通りました。

藤元さんも、町議会で低空飛行中止の意見書を3回あげました。日本共産党県議と共に国にも行きました。まだまだ成果は上がっていません。しかし地元紙にも取り上げられるようになり一歩前進だと思います。まだまだ活動を続けていきたいと思います。

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5月12日までの低空飛行目撃状況

昨今、飛来数は減る傾向にあったが、今年は5月だと言うのに飛来数が多い。

オスプレイの飛来も増加するのでないかと思われます。

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藤元雅文さんが自宅ちかくで 撮影したオスプレイ

地元メディアも報道

 地元放送局のニュース番組でも取り上げられました。*2

米軍機による異常な低空飛行が県南部で度々目撃されています。異常な低空飛行もあるという指摘もある中、県南で動きがありました。米軍機の低空飛行の問題、過去にもあったこと、皆さんはご記憶でしょうか?

  • 1990年(旧上那賀町)平谷で米軍機の低空飛行が撮影され(米軍機の飛行コース)オレンジルートが問題になった。
  • 1994年高知県早明浦ダムで米軍機の墜落事故がおきます。県は外務省に米軍機低空飛行訓練の中止を求めました。

しかし、訓練は繰り返されました。度々の訓練中止要請にもかかわらず低空飛行訓練は今も続いています。中でも多くの目撃情報のある牟岐町の住民が海部郡町村会に低空飛行をやめさせることを求めるよう申し入れをしました。

目撃証言

男性:ことしは何回も来る、しょっちゅう低空飛行してたら、いい感じはせんわね。頭の上飛んできて、自分が狙われとる感じやもんね。

女性:頭の上落ちてくるんかと思うぐらい近い

低空飛行解析センター

岡山の市民団体の低空飛行解析センターが、藤元雅文さん撮影の写真を元に現場で測量をした結果、最低で104メートルというのがわかりました。『日本の航空法では、市街地を飛行する最低高度は300メートル』

 米軍は国内法を尊重するというが、守っていないのが現実。

藤元さんが皆に伝えたいこと

林さん親子のような痛ましい事故を繰り返してはいけないのはもちろんの事。

なんで、米軍が低空飛行しているのかこれは、レーダーにかからないように低く飛んで相手を攻撃する訓練をやってるわけですよ。牟岐では毎年戦没者を弔い遺族が涙する光景があります。戦争とは肉親が死ぬだけでなく、相手も殺しているわけですから、殺し殺されるのが戦争。二度と同じ過ちを繰り返してはいけないという思いで監視活動を続けていきます。

  おわりに

    「憲法の上に日米地位協定があり、国会の上に日米合同委員会がある」

沖縄県翁長雄志知事は生前、こう訴えかけ、過重な基地負担の元凶である日米地位協定の抜本的改定に向け、日本全国で議論し、日米両政府に働きかけていくことを求めていました。 オスプレイの墜落や小学校の校庭への米軍ヘリの窓枠落下など、この2〜3年で異常な事故が相次ぐとともに、米軍機の低空飛行訓練やオスプレイの全国展開など、米軍の横暴な訓練や事故の危険が全国に広がったことを受け、地位協定への関心はかつてなく高くなっています。全国知事会の提言や、日米地位協定の抜本的改定を求める全国各地の地方議会での意見書採択、さらに国政野党が地位協定の改定で一致し、国会で政府を追及するなど、地位協定改定に向けた機運は広がっています。これ以上、新しい基地はいらないと沖縄県民が声を上げ、玉城デニー氏が圧勝した沖縄県知事選(2018年9月)、辺野古埋め立て反対が7割を超えた県民投票(2019年2月)とあわせ、主権回復を求める声を高める好機と言えます 。
               (検証日米地位協定))「新聞赤旗」政治部安保・外交班より引用

 

 

*1:その画像はこちら👇

*2:ニュースの主な内容

かつて私は軍国少女だった。

《12月で90歳になる阿南市在住のおばあさんが戦争体験を語ってくれました。》

小学生時代 

昨日は同窓会をしました。昭和3年生まれです。満州事変で世の中騒然としていた時代、小学校低学年の頃、学校では先生が兵隊さんにお手紙を書きましょう。というので慰問袋の中に絵や手紙を入れて送っていました。忠君愛国を描いた映画を学校で度々上映したりしてくれました。

満州での生活

 女学校1年生の時に太平洋戦争が始まりました。その時私は父の務め先の関係で満州のハルピンにいました。米国と戦争になるのを聞き子供ながらにわからないずくに高揚してたんです。満州では地区50人いたら5人ぐらい韓国の人がいました。でも今みたいに全然いじめなどしません。韓国の人も日本名をつけていました。5人いましたが皆、仲良しでした。一度もいさかいもなく平和に暮らしていました。同窓生は約300人いました。

日本への帰還

父が肺を患ったので、寒冷地は肺によくないということで、高知に転勤になりました。昭和18年、日本に帰って来ました。私は女学校になじんでいたので、一人で満州に残りたいと請願しましたが、親には「あかん」と言われました。今、思えばよく帰ってきてたもんだと思い返します。というのも満州に残った同窓生の多くが戦火に巻き込まれ犠牲になったからです。満州から生還した同窓生の話では姿の変わり果てた同窓生の死体を埋葬したり、大変な苦労をしてきたそうです。

そして阿南へ

 女学校3年生の夏休みに阿南の女学校に転入してきました。戦争も激しくなり、勉強もほとんどしない。1,2時間勉強したら、後は勤労奉仕、農家に行って田んぼを手伝ったり、荒れ地を開墾して芋畑にしたり、長生(約13キロ)まで歩いて行って炭焼きを手伝ったり、焚き木を背負って二宮金次郎のような状態でさらに荷車を引いて帰ったこともあるんです。生活の大半は勉強せず勤労奉仕に費やされた。

学徒動員

 終戦の1年前、昭和19年、11月7日全国に学徒動員の命令がでて、女学校(今でいう中学生ら)が動員され,晩の7時ごろ富岡駅には学徒動員される生徒が150人いたんですよ。他にも徳島県の各地から動員列車に乗って高松に集まり連絡船を乗り継ぎ、私は神戸の川西飛行機工場に配属されました。そこでは、何をしたかというと、人生で初めて飛行機の部品を作りました。ジュラルミンの薄い板を見本の形にあわせて加工、切断機で切ったり、それを曲げたり、いろんな部品を作った。今考えたらね、あんなもので飛行機動かなかったと思いますよ。「おしゃか」って言うかね不良品が多かったと思いますよ。だけど、みんな一生懸命で家から出て寂しいなんて思ったことなんてなかったです。これでお役に立っているといって高揚しているんですね。学徒の人は夜勤はしなくていいと言われていたんですが、自ら進んで夜勤した事もあるんです。

今度は本当だった空襲警報

 そのうち戦争は激しくなり幾度となく夜間の空襲警報で避難する日々が続く。5月11日、B29の大空襲に遭いました。その日も空襲警報が出たがこれまで、幾度となく空襲警報が出たが、本当にきたことはなかった。みんながまた今日も来ないと呑気に六甲山に避難していました。学徒は工員よりも先に、避難させてくれるので30分位かかるのですが六甲山についたとたん、空が見えないぐらいの数のB29がドカンドカン爆弾を落とし始めました。私は爆撃が終わるまで2時間ぐらい傍にあった木にしがみついて、今にも死ぬかもしれないと固まっていました。100人いた学徒は幸い全員無事でした。空襲が過ぎ去ると先生が迎えに来てくれて阿南に帰ることになりました。爆撃があった5月11日は毎年集まって同窓会をしています。

戦後、軍国少女の気づいた事とは

 終戦後も食糧が不自由で、私は教員になっていたのですが、当時、教員の月給は少なく初任給48円だったのを憶えています。漁業や農業している人のほうがずっと給料がいいんですよ。食うや食わずの時もありました。それでも元気で働いて今まで過ごしてきました。

 当時は戦争が悪いというのが、一つもわからなかったんです。小さいときから先生に『兵隊さん、兵隊さん』って言われてきたでしょ。戦争が終わってから、私はいろんな本を読んでみました。そしたらすごく戦争はね、戦争おこすときも上部の半数位は反対した。アメリカとしても勝ち目はない。しかし半数位の人が押し切ってしまった。真珠湾攻撃前日本は広範囲に戦域が広がっていた。素人が見てもこんな広い範囲を小さな資源も乏しい島国が戦争をしても勝ち目がないとわかるでしょ。アメリカに勝つはずがない普通の人はそう思うけど、上の人は一つも世界の事を知らなかったんやね。当時アメリカは日本の40倍資源も人口もあったんですよ。その当時私は知らなかったので一生懸命働いていたんですが、後で聞いてびっくりしました。日本の兵隊もあちこちでだいぶ悪いことをしているらしいですね。誰でも最初は人を殺せないでしょ、そしたらどうするか、中国人の捕虜を木に縛り付けて殺す稽古をした。そしてしなかったら殴られてひどい目にあった。慰安婦問題にしても日本はもっと謝らなければいけないと思う。

ドイツはきちんと謝罪をしている。日本はあやふやで戦争犯罪人の処罰ができていない。

若い人達に伝えたいこと

 今の政府しょうがないですね。私ね安倍さん呼んできてこの話したい、国会にいってしたい。家でこんな話したら、ご飯の時にそんな話はやめてくれと子供に言われる。しかし若いものに言いたい、今の安倍さん、森加計問題のように悪いこと平気でしてね、

三権分立って言うでしょ、いま日本は三権分立できてないです。今日も新聞を見てたらね、性犯罪の人が無罪になったというのが、小さい記事で載ってました。自動車で人をはねてしまうとか、いじめで死に追いやってしまうとかあっても、殺すつもりはなかったで終わり…どうしたら人が死ぬとかいうのは、普通わかるでしょ。この頃の判決緩すぎると思うんですよ。他の国なら大統領とかが収賄とかしたら、引っ張られているでしょ。

 私、国会中継よく見てるんですよ。はじめ安倍さんは森友学園の事をほめてほめてしてたのに、自分が都合が悪くなった途端知らん顔しとるでしょ、あんなの偽証罪とか罪になるのが本当でない?検察の人も安倍さんに遠慮しとるよね。三権分立でないですよ。政治家の不正に関しては厳しくしてほしいですよ。世の中が乱れてしまっている。

 最後に空一面のB29を見た爆撃体験者として言いたい。他国からの攻撃は軍拡をいくらしても防ぎきれるものではない、それよりも戦争にならないような外交に力を注ぐべきだし、そういった議員さんが増えることを願っています。