阿南平和委員会

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かつて私は軍国少女だった。

《12月で90歳になる阿南市在住のおばあさんが戦争体験を語ってくれました。》

小学生時代 

昨日は同窓会をしました。昭和3年生まれです。満州事変で世の中騒然としていた時代、小学校低学年の頃、学校では先生が兵隊さんにお手紙を書きましょう。というので慰問袋の中に絵や手紙を入れて送っていました。忠君愛国を描いた映画を学校で度々上映したりしてくれました。

満州での生活

 女学校1年生の時に太平洋戦争が始まりました。その時私は父の務め先の関係で満州のハルピンにいました。米国と戦争になるのを聞き子供ながらにわからないずくに高揚してたんです。満州では地区50人いたら5人ぐらい韓国の人がいました。でも今みたいに全然いじめなどしません。韓国の人も日本名をつけていました。5人いましたが皆、仲良しでした。一度もいさかいもなく平和に暮らしていました。同窓生は約300人いました。

日本への帰還

父が肺を患ったので、寒冷地は肺によくないということで、高知に転勤になりました。昭和18年、日本に帰って来ました。私は女学校になじんでいたので、一人で満州に残りたいと請願しましたが、親には「あかん」と言われました。今、思えばよく帰ってきてたもんだと思い返します。というのも満州に残った同窓生の多くが戦火に巻き込まれ犠牲になったからです。満州から生還した同窓生の話では姿の変わり果てた同窓生の死体を埋葬したり、大変な苦労をしてきたそうです。

そして阿南へ

 女学校3年生の夏休みに阿南の女学校に転入してきました。戦争も激しくなり、勉強もほとんどしない。1,2時間勉強したら、後は勤労奉仕、農家に行って田んぼを手伝ったり、荒れ地を開墾して芋畑にしたり、長生(約13キロ)まで歩いて行って炭焼きを手伝ったり、焚き木を背負って二宮金次郎のような状態でさらに荷車を引いて帰ったこともあるんです。生活の大半は勉強せず勤労奉仕に費やされた。

学徒動員

 終戦の1年前、昭和19年、11月7日全国に学徒動員の命令がでて、女学校(今でいう中学生ら)が動員され,晩の7時ごろ富岡駅には学徒動員される生徒が150人いたんですよ。他にも徳島県の各地から動員列車に乗って高松に集まり連絡船を乗り継ぎ、私は神戸の川西飛行機工場に配属されました。そこでは、何をしたかというと、人生で初めて飛行機の部品を作りました。ジュラルミンの薄い板を見本の形にあわせて加工、切断機で切ったり、それを曲げたり、いろんな部品を作った。今考えたらね、あんなもので飛行機動かなかったと思いますよ。「おしゃか」って言うかね不良品が多かったと思いますよ。だけど、みんな一生懸命で家から出て寂しいなんて思ったことなんてなかったです。これでお役に立っているといって高揚しているんですね。学徒の人は夜勤はしなくていいと言われていたんですが、自ら進んで夜勤した事もあるんです。

今度は本当だった空襲警報

 そのうち戦争は激しくなり幾度となく夜間の空襲警報で避難する日々が続く。5月11日、B29の大空襲に遭いました。その日も空襲警報が出たがこれまで、幾度となく空襲警報が出たが、本当にきたことはなかった。みんながまた今日も来ないと呑気に六甲山に避難していました。学徒は工員よりも先に、避難させてくれるので30分位かかるのですが六甲山についたとたん、空が見えないぐらいの数のB29がドカンドカン爆弾を落とし始めました。私は爆撃が終わるまで2時間ぐらい傍にあった木にしがみついて、今にも死ぬかもしれないと固まっていました。100人いた学徒は幸い全員無事でした。空襲が過ぎ去ると先生が迎えに来てくれて阿南に帰ることになりました。爆撃があった5月11日は毎年集まって同窓会をしています。

戦後、軍国少女の気づいた事とは

 終戦後も食糧が不自由で、私は教員になっていたのですが、当時、教員の月給は少なく初任給48円だったのを憶えています。漁業や農業している人のほうがずっと給料がいいんですよ。食うや食わずの時もありました。それでも元気で働いて今まで過ごしてきました。

 当時は戦争が悪いというのが、一つもわからなかったんです。小さいときから先生に『兵隊さん、兵隊さん』って言われてきたでしょ。戦争が終わってから、私はいろんな本を読んでみました。そしたらすごく戦争はね、戦争おこすときも上部の半数位は反対した。アメリカとしても勝ち目はない。しかし半数位の人が押し切ってしまった。真珠湾攻撃前日本は広範囲に戦域が広がっていた。素人が見てもこんな広い範囲を小さな資源も乏しい島国が戦争をしても勝ち目がないとわかるでしょ。アメリカに勝つはずがない普通の人はそう思うけど、上の人は一つも世界の事を知らなかったんやね。当時アメリカは日本の40倍資源も人口もあったんですよ。その当時私は知らなかったので一生懸命働いていたんですが、後で聞いてびっくりしました。日本の兵隊もあちこちでだいぶ悪いことをしているらしいですね。誰でも最初は人を殺せないでしょ、そしたらどうするか、中国人の捕虜を木に縛り付けて殺す稽古をした。そしてしなかったら殴られてひどい目にあった。慰安婦問題にしても日本はもっと謝らなければいけないと思う。

ドイツはきちんと謝罪をしている。日本はあやふやで戦争犯罪人の処罰ができていない。

若い人達に伝えたいこと

 今の政府しょうがないですね。私ね安倍さん呼んできてこの話したい、国会にいってしたい。家でこんな話したら、ご飯の時にそんな話はやめてくれと子供に言われる。しかし若いものに言いたい、今の安倍さん、森加計問題のように悪いこと平気でしてね、

三権分立って言うでしょ、いま日本は三権分立できてないです。今日も新聞を見てたらね、性犯罪の人が無罪になったというのが、小さい記事で載ってました。自動車で人をはねてしまうとか、いじめで死に追いやってしまうとかあっても、殺すつもりはなかったで終わり…どうしたら人が死ぬとかいうのは、普通わかるでしょ。この頃の判決緩すぎると思うんですよ。他の国なら大統領とかが収賄とかしたら、引っ張られているでしょ。

 私、国会中継よく見てるんですよ。はじめ安倍さんは森友学園の事をほめてほめてしてたのに、自分が都合が悪くなった途端知らん顔しとるでしょ、あんなの偽証罪とか罪になるのが本当でない?検察の人も安倍さんに遠慮しとるよね。三権分立でないですよ。政治家の不正に関しては厳しくしてほしいですよ。世の中が乱れてしまっている。

 最後に空一面のB29を見た爆撃体験者として言いたい。他国からの攻撃は軍拡をいくらしても防ぎきれるものではない、それよりも戦争にならないような外交に力を注ぐべきだし、そういった議員さんが増えることを願っています。